《座標》『図書館界』50巻3号 (September 1998)


市民は図書館に何をもとめているか

馬場 俊明

ことしは,1948年に国連で「世界人権宣言」が採択されてから半世紀になる。同宣言第19条には「人は皆,自由に意見し,表現する権利がある。この権利は,干渉を受けずに自分の意見をもつ自由と,あらゆる手段で,国境にかかわりなく知識や考えを探し求めたり,受け取ったり,伝えたりする自由を含む」とある。この思想は,市民の「知る自由」を保障する図書館の基本的理念とも少なからずかかわりがある。
いうまでもなく,すべての市民の図書館を利用する権利は平等である。市民は,その信条,性別,年齢,その他の身分による一切の差別を受けることはない。公共図書館は,こうした人間としての尊厳と権利と自由を実現するために,社会の期待と市民の要求をよりどころとして,資料提供という機能をもっとも重要な任務として位置づけている。

ところが,近年,高度情報化社会の進展により,伝統的な図書館機能論を過去の遺物として,情報技術のなかで図書館機能を考えようとする逆転した論議が罷り通っている。そこには,究極の理想の図書館として電子図書館が描かれている。
インドの図書館学者ランガナタンは,「図書館は成長する有機体である」と述べているが,たしかにここ数年の資料形態や資料を取り扱う技術の変化はめざましい。市民をとりまく情報環境もインターネットの話題などで尽きることはない。数か月前,通信衛星からデータを受信し,本に近い形態の読書用端末で読むという「電子書籍」の実験開始の記事が新聞に載っていた。(1998/7/8 朝日)これが実現すると,「近くに書店も図書館もない『本の過疎地』に住む人や,入院中で書店に足を運べない人など」が恩恵をこうむるという。この論理は,非来館型の電子図書館論においても用いられている。
だが,このような情報技術信仰のもとに構想される図書館や「電子書籍」は,ほんとうに市民がもとめているものなのだろうか。

市民は,図書館に何をもとめているか。
『電子図書館の神話』のW.バーゾールやネットワーク歴15年になる『インターネットはからっぼの洞窟』のC.ストールなどは,電子図書館推進論者のビジョンの危うさを指摘しながら,伝統的な図書館機能が衰退することはないと論じている。それは,単なる技術主義の否定に立つものではなく,あくまでも市民の「本を読む」ことの思想的基盤にもとづく理由からである。
「本を読む」という為は,私的な空間秩序のなかで,抽象的な概念を対象にその思考力を垂直に深化させる特質があり,市民が図書館にもとめているのは,そのような人間としての尊厳と権利と自由の自己実現の達成のための読書ではないだろうか。
技術主導の「電子書籍」が,たとえ「本に近い形態の読書用端末で読む」ことができたとしても,それは,本質的に公的空間のデータを受信し,「文字を読む」だけの水平思考にしかむかないのではないだろうか。S.バーカーツは,『グーテンベルクヘの挽歌』のなかで,電子技術時代を迎えての試練を(1)言語の衰退(2)歴史的なものの見方の平板化,(3)個的な自我の衰微であると予測しているが,すでにその兆しは現れている。

情報技術の進展により,新しい記録媒体が次から次へと誕生しているが,その一方で,1997年度の新刊書は,ついに6万冊を越えているのである。つまり新刊書に手を伸ばしたくなるように,公共図書館は,蔵書を魅力あるものにすることが市民への最大の贈り物ではないだろうか。多様な価値の選択肢をもっていることこそが公共図書館の社会的責務である。情報技術は,それを支援するための手段である。

まもなく図書館法が成立して半世紀を迎える。この法律が,図書館が市民のためのサービス機関として,利用の平等化を徹底し,無料の原則によって,利用にあたっての差別を一切排除していることの意味は大きい。このとき日本図書館事館協会の理事長であった中井正一は,この芽が「百年後には,しんしんと大空を摩す大樹となる」ことを祈り,図書館員が行動をもって,その精神を伝えなければならないとその決意を表明している。われわれはそのことを忘れてはならないだろう。

(ばんば としあき 堺女子短期大学)