《座標》『図書館界』55巻4号 (November 2003)


何のための改革か

山口 源治郎

本誌55巻2号の「座標」で伊藤昭治さんが,最近の学会・研究会での口頭発表の現状になかなか辛辣な批判を放っている。問題意識の希薄さ。批評することすら憚られる研究水準・内容の貧しさ。にもかかわらずプレゼンテーション・テクニックだけは華やいでいるという奇態さ。伊藤さんの批判は正鵠を射ているが故に,研究職に身を置く一人として弁解の余地もない。

伊藤さんの文章は「役に立たねば学問でない」と年来の信念で結ばれている。「役に立つ」ということが近視眼的に,あるいは卑近な意味で用いられているならばいささか抵抗も感じるが,その研究が,図書館や図書館学の基本的本質的な問題と何の関係があるのか,発表者自身が何におもしろさ(知的興味)を感じているのかすらよくわからない発表が多い中で,伊藤さんの断言は重い意味を持っている。
こうした研究の多くは自己満足のための研究ですらなく,単なる発表回数稼ぎか,発表の本来の目的を離れた,発表それ自体を目的とするという自己疎外的病理現象である。「市場原理」に基づく大学教員の業績主義的管理がすすめば,大学院生のみならず古手教員にもこうした傾向が広がる可能性が高い。

他方,こうした現象は,何も研究の世界だけの話ではない。図書館行政の世界においても,近年「何のための改革か」と思わせるような現象が,「構造改革」の名の下に急速にすすめられている。

東京近郊のI市では,中央図書館の新設を今はやりのPFI方式で実施するという。PFI方式とは公共施設の設計・建設・資金調達・管理運営等をすべて民間業者に委ね,行政は数十年という契約期間にわたって民間業者に建設運営費を支払うという新しい公共事業の手法である。財政逼迫の折,行政にとって初期投資の大幅軽減が見込めることが最大の魅力となっている。
ところがI市では,22年間のPFI契約にもかかわらず,建設費用の75%を開館時までに,残りの25%分を5年間で支払うという。これでは従来型の公共事業とほとんど変わりがない。PFI方式に賛成するわけではないが,一体何のためのPFI方式かと首をかしげたくなる。I市にとって,それが本来のPFIのあり方からズレていようと,とにかくPFIという「構造改革」の輝かしい「実績」がほしいというのが本音のようだ。そして「運よく」中央図書館建設が目の前にあり飛びついた,ということのようだ。

また東京都立図書館でも,都立3館の縮小再編にとどまらず,市町村立図書館に対する協力支援サービスの大胆な「改革」が現在進められている。配架後30日以内の新刊和書,10万円以上の高価本,昭和25年以前刊行の資料等は協力貸出をしないというのがその中身である。協力支援サービスに大鉈を振るって都立図書館は一体何をしたいというのであろうか。高度なレファレンス・サービスか,ビジネス支援か,他の何かか。いずれにせよ,数十年にわたって積み上げてきた都立と市町村立図書館の信頼関係,協力関係を破壊した先にどのような未来が開けるというのか。あるのは都立不要論である。その意味で近年の都立の動向は,「改革」という名の自壊現象なのではないかとの観を強くする。

現代が改革の時代であることは間違いない。図書館にもまた改革すべき多くの課題が山積している。しかし何の検証もなく,「民間の手法」の導入を唱え,アルファベットの頭文字を並べ立てるような「改革」論や,どう変わるかを問わず,とにかく「時流に乗り遅れるな」といった思考停止型の議論はもううんざりだ。バブル経済,委託論などが,国民経済や図書館運営にどれだけ混乱と負の遺産をもたらしたか思い起してみるべきだ。
PFI,NPM,官民のパートナーシップ,ビジネス支援,地域情報化拠点,貸出批判,司書のグレード制,それらを唱え議論することはいい。しかしその際,「それは何のための,誰の改革か」,「それは図書館の基本的な問題とどんな関係にあるのか」,そのことを頑固に問い続け立ち返る司書と研究者の見識が,今強く求められているように思う。

(やまぐち げんじろう 理事・東京学芸大学)