《座標》『図書館界』56巻5号 (January 2005)


60年前の「少国民」

塩見 昇

 この号が2005年1月の刊行であることを意識して,区切りのよい60年前-「1945年」という年を振り返ってみたい。いうまでもなく,それは日本が敗戦を招いた昭和20年であり,敗色濃い戦局の下でその年は明けた。私は当時,国民学校2年生だった。

 「ぼくら少国民」の最後の世代ではあるが,幸いにも空襲による直接の被害はほとんどなかった京都に生まれ育ったため,戦争体験は希薄である。しかし,この年の3月末に父の郷里である京都府下の田舎に母と妹弟とともに疎開(縁故疎開)し,田舎の学校に通うことになった。夏休み中に敗戦となり,2学期以降も私だけが一人残ってその学校で3年生を終えた。いくら親戚の家とはいえ,3年生の子どもには寂しい日々であり,大川の橋の上で涙をこらえて唱歌「ふるさと」を口ずさんだものである。

 そんな子ども時代の記憶の中で,今も強烈に残る戦時下の経験が幾つかある。教育と情報の力,恐ろしさを改めて強く感じる体験であり,その後の私の思想や生き方に何かを残しているように思う。

 一つは,疎開に行く少し前のころに手にしたある雑誌の一枚の写真である。グラフ誌のようなものだったと思うが,そこには金髪の若いきれいな女性がテーブルの上の頭蓋骨(しゃれこうべ)をもてあそんで,にっこり微笑んでいた。その写真の下には,「日本軍兵士の頭蓋骨を愛玩するアメリカの金髪鬼」といった意味の言葉が添えられていた。これを見たときの身震いする怖さは今も忘れられない。

 「鬼畜米英」大合唱の時代であり,それを強調するキャンペーン写真だったのだろうが,理屈抜きに「鬼畜」米英観を叩き込まれたものである。幼心にアメリカ人というのは怖い人種であり,戦争に負けたら日本人はみんな「しゃれこうべ」にされてアメリカ人にもてあそばれるのだ,決して戦争には負けちゃならない,という観念を強く植え付けるのに十分な情報だった,と思う。(いま一度この写真の載った雑誌と再会させてくれるレファレンスをどこかの図書館でやってもらえるだろうか。)

 もう一つの事実は,深刻な教育の「成果」についてである。同級生のI君は,学年で一番の長身で,運動神経も優れた,今で言えば「かっこいい」少年だった。しかし,戦時下では彼は肩身の狭い存在であり,時折物陰で一人泣きじゃくることが少なくなかった。彼よりもよほど小柄な悪童どもが,彼をいじめるのに常用したのが,「やぁーい,アメリカ人」という罵声だった。鬼畜米英と戦っている戦時下で「アメリカ人」とからかわれることは,彼にとってこの上ない屈辱だったのである。戦後になると彼は,少年野球のエースとして,スタルヒンばりのさっそうとした日々を楽しむことになるのだが,戦時下ではこんな辛い体験を余儀なくされていた。

 60年を経過しても,これらの事実は昨日のことのように鮮明に脳裏に焼き付いている。「ぼくら少国民」はこのようにして育成され,そこになんの疑問も抱くことはなかった。おかげで,戦後しばらくはジープに乗ったアメリカ人を見かけると,恐ろしい「金髪鬼」とアメリカ人だと揶揄されて泣いていたI君の姿が二重写しになるのを消せなかった。幼い子ども心にこうした観念を深く刻み込んだ戦時キャンペーン情報と教育の力の大きさ,恐ろしさを,いま改めて痛感する。

 翻って60年後の現在,戦争体験の継承は,かぎりなく限界に近づいている。戦争体験をじかに語り伝えることのできる世代は少なくなり,それに反比例するように,国民世論の右傾化は著しい。「民主的で文化的な国家を建設して,世界の平和と人類の福祉に貢献しようという決意」を実現する根本の力が教育にある,という考えの下に制定された教育基本法がいま大きく揺らいでいる。これは私ども図書館職にある者が大事にしている「図書館の自由」が拠って立つ基盤を崩しかねない危険な動向でもある。

 かつて日本の教師たちが,「教え子を再び戦場に送らない」との思いを専門性の柱に据えたことがある。教育や情報にかかわる図書館職として,その政治性とどのように向き合い,職務を遂行するか,そこに重い課題を思う戦後60年の春である。

(しおみ のぼる 理事長:大谷女子大学)