《座標》『図書館界』60巻6号 (Mar., 2009)


資料と情報の選択についての責任

柴田 正美

 誰が名付けたのかははっきりしないが「100年に1度」といわれる経済状況にあった2008年度が残り少なくなってきた。この状況は,これまでの多くの流れを逆転させ,厳しい現実への対応が求められるようになってきつつある。

 いくつかの例を挙げると,「環境保護」を隠れ蓑にした薄暗い建物の内部,街のオアシスともてはやされたコンビニエンス・ストアの照明が「無駄」と指摘されたり,24時間放映を売り物にしていたテレビも停止時間が生まれ,一斉退庁・残業時間ゼロ(実質はサービス残業の増加に過ぎないようである。)の慣行も定着してきた。高度成長を謳歌した時期がどんどん遠くなりつつある。

 その時期の終盤にいたって登場してきたのは「自由時間」「隠れ家」といったコトバである。現実の厳しさを,つかの間であろうとも忘れるためのものと理解されていた。たしかに,高い経済力と充実した公的基盤を背景にして自由時間を利用することができる環境にいるならば魅力的なコトバであろうが,そうしたものの保証をもたない人たちにあっては「自己責任」という一種の後ろめたさを備えたコトバとセットとされ,現況のなかに押しつぶされてしまう。

 2008年の出版界についても同様なことが指摘できるであろう。「雑高低書」とされ,つぎつぎと創刊される雑誌が,「3号雑誌」と揶揄された時代の再現であるかのように,わずかな期間で退場し,さらに別のタイトル・分野を目指したものが創られる。目先を変えさせる意図があるのか,それとも創刊する側に世間を見る眼が備わっていないのか。「雑高」のみが時代背景となり,「書」への回帰のないままに新しい年になってきた。もてはやされた新書ブームにしても,話題となるテーマが手軽に取り上げられた程度で済まされ,じっくりと取り組むべきテーマすらが軽く表面的に流れてしまうことを肯定するように展開されている。文庫の復権も兆したが,定着するまでには相当の時間を必要とするだろう。

 出版する側に視点をおいて見れば,このように表現されるのであろう。けれども,それらを利用する側に立って眺めてみると異なってくる。すなわち,書を求める気運が急速に冷めていっているとは思えないのである。通勤・通学電車のなかで書を開く多くの人が見受けられる。たしかに文庫をはじめとするコンパクトな形態を利用している場合も多いが,数百ページに達するどっしりした書を持ち込んでいる人もかなり居る。私が通勤に利用する経路を走る路線は,比較的に公的基盤が充実している自治体をもっているのであるが,小口・天等に「○○図書館」と記された書を見受ける機会もしばしばある。たしかに,ケータイを開き,メールを打ったり,ゲームを楽しんでいる人の方が圧倒的に多いことは否めない。しかし,短い時間を効率的に利用している賢い「書」の徒が見受けられる。

 この気運は,厳しさを加えていく景況感のなかでどのように展開するのであろうか。新書・文庫への期待感が,もっぱら個人の管理できる経済背景を理由としているならば,ますます深まることは疑いがないだろう。「書」の軽薄短小化が展開していくことになる。さらに,出版界が,「雑高」だけに依存するような今のような認識に留まっているならば,いずれ,出版そのものが見離される可能性が生まれてくる。出版界は,利用する側の意識を的確に把握して,情報伝達機能を軽視することなく,更には「書」を大切にし,そこで繰り広げられる世界の広さと奥深さを示すことが求められるだろう。

 そして,出版界が生産・流通させる成果物の集積と長期間における再伝達の機能を果たすことが求められている図書館は,公的責任を自覚し,機能の着実な展開を求めていくことが期待されることになる。目の前に提示される資料および情報に対する要求を,目に付く範囲のみを背景に性急に判断することの意味を理解しなければならない。「100年に1度」の事態であるがゆえに,資料および情報の選択・収集についての見識と能力が問われることになってきている。

(しばた まさみ 理事・帝塚山大学)