2011年度図書館研究奨励賞について

受賞者:嶋田学氏・安里のり子氏

図書館研究奨励賞選考委員会

(川崎良孝,塩見 昇,志保田務,山本順一,渡邊隆弘)


 2011年度の図書館研究奨励賞の選考過程をお伝えするとともに,受賞作品の紹介をしておきたい。

 本年度は当研究会の機関誌『図書館界』の61巻4号から63巻3号に掲載された14本の論稿が選考の対象とされた。若干ではあるが,例年見られる会員からの自薦・他薦がなかったのは,いささか淋しい思いもする。会務の分担から半ば充て職でこの選考作業は行われているが,東洋倫理,長幼の序に従って並べると,塩見,志保田,川崎,山本,渡邊の5名の責任で実施した。個々の対象作品について微妙な受け止め方の相違は否定しないが,結論的には評価・見解が分かれることなく,安里・嶋田の両氏の作品に対して,2011年度の奨励賞を授与することになった。紋切り型の授賞理由については,すでに授賞当日にも示しているので,ここでは同様の立場に立たされた人たちが記す従来のやり方とは少し異なるスタイルで,めでたく奨励賞を射止められた2作品について,紙幅の許す範囲で偏見を交えて紹介をしてみたい。

嶋田 学「地域を活性化させる図書館活動とは:公共図書館政策と東近江市立図書館の実践」
(63巻1号,p.16-23)

 本論稿は「現場からの提言」という論文・記事類型のなかで投稿されたものである。その類型を設けた趣旨にそって,執筆者の前職である東近江市立図書館での経験をもとに,これからのこの国のひとつの公共図書館のあるべき姿を真摯に模索している。

 1999年の地方自治法の改正は,建前として,国と地方の関係を対等で水平的な役割分担の関係とした。これは多種多様かつ複雑な行政諸課題を前にして,対応する諸資源が見事なまでに枯渇し,中央政府の実質的力量が相対的に低下し,既得権益の一部を放棄せざるを得なくなったことをあらわしている。地方公共団体の力量の高まりが顕著であったわけではない。そのなかで公立図書館の再定義が必要になった。嶋田論文はよく知られている‘ソーシャル・キャピタル’(社会関係資本)という概念に飛びついた。現在およびこれからの日本の公立図書館のレーゾンデートル(存在意義)を司書と公立図書館(の抱える情報知識資料)を媒介にして地域の物的,文化的,精神的諸資源を糾合し,地域社会の課題を析出し,一定の処方箋を書き上げ,ネットワーク的協働を展開し,コミュニティを賦活することに一筋の光明を見出されているようである。

 そのように時代的状況を把握され,‘(公立)図書館よ,まちに出よう’と言われる。(人生を豊かにはするであろうが)どうでもいい暇つぶしの軽読書材をどさっと抱えてお客が来るのを待つのではなく,図書館マーケティングに乗り出そうという至極もっともな主張である。ネットワークよりフットワーク,地域のいろいろな人たち,様々な組織や団体と接触するなかで市民に喜ばれ,一定の効果を発揮できる図書館施策が産み出されるという厳然たる事実を,東近江市立図書館,そして合併前の永源寺町立図書館での実践事例から説得力のあるコメントを述べられている。

 現場経験,それもおざなりではなく真剣に仕事をしてきた人でなければ書けない論稿として,高く評価できる。

安里のり子「図書館の専門職としての知的自由:論争とアメリカ図書館協会の対応」
(63巻3号,p.214-231)

 抽象的で美しい理念を掲げるのはたやすいことであるが,その理念に含まれている進歩性はなかなかに社会の大勢を占める保守的な人たちには理解されず,理念を信奉する少数の勇気ある人たちは排除され,仲間だと思われる人たちからも思ったほどの支援が得られず,孤立して表舞台から去ってゆく。そして,陽のあたるところでは美辞麗句に飾られた正論を吐くが,具体的な紛争が発生すると沈黙を決め込む気の弱い善良な人たちは何の役にも立たない。そのようなこれまでの人間社会が繰り返し確認してきた‘真理’を,1960年代から70年代にかけてのアメリカ図書館界における知的自由をめぐるいくつかの事件を詳細に検討し,明らかにした作品である。

 安里さんがこの力作を通じて論じたところを,わたしなりに一般化し,図解すると下図のようなモデルが得られる。

 アメリカ図書館協会のホームページをのぞくと,「アメリカ図書館協会は,連邦憲法修正1条が保障している通り,図書館利用者がもつ自由に読書し,情報を探索し,表現する権利を守るべきだと主張する。公的支援を受ける図書館は地域社会のすべての人たちに対して情報への無償で平等なアクセスを提供する。わたしたちは,自分たちの民主主義社会において,この基本的権利を享有する。それは図書館専門職の中核的価値観を構成するものである」と高らかに謳いあげている。 安里論文は,アメリカ図書館協会を中心とするアメリカ図書館界が‘知的自由を擁護する’といったとき,それは利用者に向けられたものであり,必ずしも利用者に図書館サービスを提供する専門職ライブラリアンに向けられたものではなかったことを論証している。アメリカ図書館協会では1967年以来知的自由部が置かれ,図書館現場で発生する専門職ライブラリアンを当事者とする知的自由に関する紛争の処理にあたってきたはずであるが,組織防衛的感覚も抜きがたく,効果的な対応がなされてこなかったという。

 専門職ライブラリアンにかかわる‘知的自由’の問題は,特定資料の選択と所蔵が焦点となり,政治的立場を異にするとか,宗教的価値観が相違するとか,卑猥・猥褻ないしは古臭い性道徳を不可侵のものと考える図書館の外部の人たちが衆を頼んで廃棄させようとするもので,それに対して‘知的自由’の崇高な理念を掲げて抵抗しようとする専門職ライブラリアンを解雇,追放するという構図である。ゴア事件(1968)では雑誌『エヴァグリーン・レビュー』,フォースマン事件(1968)では『バークレー・バーブ』『アーバンガード』,ロシチャン事件(1969)ではまた『エヴァグリーン・レビュー』,カーリー事件(1971)でも『エヴァグリーン・レビュー』と『ロサンゼルス・フリープレス』を書架から排除しようとするものであり,そしてボジャー事件(1969)は学生が『フリープレス・アンダーグラウンド』という左翼的新聞を販売していたところ,ミズリー大学当局が警察に通報し,学生たちを逮捕させたというものであった。‘知的自由’というと政治的文脈で議論されるような気もするが,それはボジャー事件だけで,あとの事件は,図書館の外部からの(事後)検閲の対象となったのは人間という動物の自然な性行動を内容とする程度のものにすぎない。

 ALAの知的自由委員会は,うえに並べた不幸な事件を契機に,またその時々の政治経済状況を背景に,ゲインズやキャスタグナのような歴代委員長の中には状況の好転を企図するものがあらわれたりしたが,知的自由に‘覚醒’した専門職ライブラリアンを放逐した図書館や関係者に鉄槌のくだることはなかった。知的自由が守られるべき規範として,これを犯した‘悪人たち’に因果応報の仕組みはつくれなかった。

 安里論文は,ALAを俎上にあげ,崇高な知的自由の理念が社会に浸透していないだけでなく,この普遍を装う理念は図書館専門職の世界にも本質的なところで共有されることはなかったし,これからも大きな変動はないとの示唆を与えているかのように見える。

 アメリカの図書館の世界での‘知的自由’を輸入したのが日本の‘図書館の自由’である。日本でも図書館の自由をめぐる不祥事は決して少なくない。しかし,配置転換されることはあっても,日本では図書館職員のクビが飛んだということは寡聞にして聞かない。アメリカも矛盾に満ちているが,日本ほどぬるくはないといえるのであろうか。

 安里論文は,知的自由の問題を時期と事件を絞り,丹念に論理をつないだ良い論文だと高く評価できる。今後の成果にも大いに期待したい。

(文責:山本順一 桃山学院大学)

(この報告は『図書館界』64巻1号に掲載)